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第一回校内模擬試験について- 73期 匿名希望です
2020/06/30 (Tue) 22:36:03
第一回模擬試験についてです。大問2のFで、「松下村塾は吉田松陰が萩に開設した」とあります。模範解答では両方正しいとなっていますが、松下村塾は吉田松陰の叔父さんが開き、吉田松陰が引き継いだ、という認識だったので疑問に思い、辞書で調べたところ、玉木文之進なる人物が開き吉田松陰は「主宰」したと書いてありました。実質吉田松陰が開設したようなものではあると思いますが、1を誤りにした人も○は貰えますでしょうか?
Re: 第一回校内模擬試験について - 某日本史教諭
2020/07/01 (Wed) 08:36:59
なかなかこまかい指摘です。

吉田松陰は密航容疑でつかまり、出獄後に萩の自邸内に新しく私塾を開きます。この時、叔父が開いた「松下村塾」の名を継承します。図説資料などでは「叔父の松下村塾を受け継ぎ」とあります。

一方、旺文社の「日本史事典」の吉田松陰の項の記述は以下の通りです。

1830〜59
幕末の思想家・尊攘派志士
長州藩士。山鹿流兵学の家学を継いだが,のち江戸で佐久間象山に師事。1854年ペリー再来のとき金子重之助と海外密航を企て失敗し,萩で下獄。出獄後自宅内に松下村塾を開き,門下から高杉晋作 (しんさく) ・久坂玄瑞 (げんずい) ・木戸孝允 (たかよし) ・伊藤博文・山県有朋 (ありとも) らの俊才を生む。安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死した。

手元にある角川の「日本史辞典」の吉田松陰の項では「おじ玉木文之進の塾を受け継ぎ、'56自邸内に松下村塾を開き」とあります。

したがって、塾を開設したという点で、問題文は間違っていないと言ってよいでしょう。

今回、こまかい部分の指摘をしてくれたことに敬意を表し、加点をしてあげたいところですが、こうしたことに疑問を持たずに「誤り」にした人もいるでしょうから、公平性を考えると難しいですかね。
また、いろいろと疑問をぶつけてください。
Re: Re: 第一回校内模擬試験について - 73期 匿名希望です
2020/07/01 (Wed) 12:23:10
了解しました。ありがとうございます!
講義録の内容についての質問- 匿名73期
2020/06/02 (Tue) 15:13:16
011の中大兄皇子の孝徳病死後に即位できなかった理由として間人皇女との事実上の婚姻関係が挙げられていると思いますが、皇太子なのにも関わらず個人的都合により即位できないというのは皇太子としての任務責任等はなかったのでしょうか。やはり中大兄皇子が独断政治を行っていたこともあり誰も咎めるようなことはなかったんでしょうか?
Re: 講義録の内容についての質問 - 某日本史教諭
2020/06/02 (Tue) 15:41:14
「日本書紀」が伝える中大兄皇子・天智天皇は独断専行の非情な政治家です。確かに、彼が怖くて、誰も何も言えなかったという感じですね。だけど、どこまで事実かわからないところがあります。

この時代のことを伝える史料は「日本書紀」しかありません。これは天武天皇の元で編纂が命じられ、途中で挫折した後、奈良時代になって成立します。天武天皇としては、兄の系統を滅ぼして天皇として即位しているわけで、兄のことを悪く書き、自らを正当化するということが必要になります。潤色している部分もあるでしょう。
歴史で大切なのは史料批判であり、普通は、複数の史料をつき合わせ、誤りや矛盾を解消してゆきます。しかし、この時代には「日本書紀」しかないので、そういうことができないのです。

斉明天皇が亡くなった後、中大兄皇子称制として天皇不在の時期が6年以上もあるのも不思議です。間人皇女が実際には天皇扱いだったという説もあるようですが、いろいろとつじつまが合わないことが多いんです。そういうのを説明しようとして、中大兄皇子と間人皇女との不倫説なんかも出てくるわけです。

いずれにしても、奈良時代より前の時代は史料の制約があるために、わからないことだらけです。
その分、ロマンがあるという人もいますが、本当か嘘かわからないわけで、教員の立場からすると教えにくい時代です。教科書の記述もしょっちゅう動いています。
私は「日本書紀」に頼って歴史を復元する時代が終わり、奈良時代になるとホッとします。
Re: Re: 講義録の内容についての質問 - 匿名73期
2020/06/03 (Wed) 22:24:52
ありがとうございました!
講義録の内容についての質問- 匿名73期
2020/06/01 (Mon) 22:25:47
[大化改新のクーデター]の蘇我氏打倒後の大臣、大連の扱いについて、ここの文面には廃止とありますが、他の文面に冠位十二階の一部として組み込み、その特権性を失わせた、という趣旨の説明がなされているものが一部ありました。完全廃止と言う形で廃止されたのでしょうか?
Re: 講義録の内容についての質問 - 某日本史教諭
2020/06/01 (Mon) 22:59:45
大化の改新の際、大臣と大連は左右大臣に置き換えられました。大連は、物部氏滅亡以後は空席になっています。

大臣と大連は大王の政治を補佐する職名です。これに対し、冠位十二階は位階であり、両者は異なる概念です。したがって、大臣という役職が冠位十二階に組み込まれることはないはずです。
Re: Re: 講義録の内容についての質問 - 匿名73期
2020/06/01 (Mon) 23:03:16
ありがとうございます!
講義録全般の内容について- 匿名73期
2020/05/17 (Sun) 21:50:14
史書の名称に見られる「記」や「紀」の違いは何かしらの史書の扱いの違いから来ているのでしょうか、それとも「そもそもそういうもの」だからあまり区別はないのでしょうか。
Re: 講義録全般の内容について - 某日本史教諭
2020/05/18 (Mon) 08:42:36
「記」は「ありのままを記す」、「紀」は「編集してまとめて記す」のがもとの意味だそうです。

「古事記」は稗田阿礼の言うことを、太安万侶がありのまま記録したということであり、「日本書紀」はさまざまな出来事を編年体に整理して記述したということなんでしょう。後者が正史です。
Re: Re: 講義録全般の内容について - 匿名73期
2020/06/01 (Mon) 22:26:53
ありがとうございました。
蘇我石川麻呂の殺害について- 七十三茶
2020/05/19 (Tue) 23:25:46
蘇我氏が中大兄皇子の目指す政治に置いて目の上のたんこぶだったのは分かりますが、蘇我石川麻呂は共に大化改新をした人物なので蘇我一族とはいえ彼の持つ理念は中大兄皇子と同じだったのではないでしょうか?
そうでないとしたら蘇我蝦夷と入鹿を殺すことで蘇我石川麻呂に何かメリットがあったのですか?

蘇我石川麻呂の殺害理由が「彼が蘇我氏であるから」というのがあまり納得いかなかったので質問させていただきました。
Re: 蘇我石川麻呂の殺害について - 某日本史教諭
2020/05/20 (Wed) 06:59:32
乙巳の変後、皇位継承候補だった古人大兄皇子が殺されるのですが、その件で、石川麻呂は左大臣阿倍内麻呂たちと対立していたということです。中大兄皇子の「邪魔者は消す」路線に反発していたんでしょうか。
ただ、この時期の史料が少なすぎて、いろいろと理解できないことが多いですよね。
無題- 73期生
2020/05/18 (Mon) 14:27:13
任那と伽耶、任那官家と任那日本府はそれぞれ同じ意味の用語として考えて良いのでしょうか?それとも何か違いがありますか?よろしくお願いします。
Re: 無題 - 某日本史教諭
2020/05/18 (Mon) 20:18:07
任那は日本での表記の仕方、伽耶、加耶、加羅は朝鮮(韓国)での表記の仕方です。

「任那官家」と「任那日本府」は「日本書紀」に登場するもので、一昔前は、これを近代の朝鮮総督府のような役所と理解し、この時代に倭の勢力が朝鮮半島南部を植民地にしていたと解釈されていました。現在は否定されています。
なにぶんにも史料に乏しく、詳しいことはよくわからないのです。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/179014.pdf
上を参考に私見を述べるならば、「任那官家」は、倭が加耶諸国の用心棒となる同盟を結んだことで、鉄などを供給してもらうために設定した場所(集積地)、「任那日本府」は「任那官家」を維持するために出向いていた倭人の集団のいたところ、ということでしょうか。「官家」と「日本府」は同一のものと見てもよいでしょう。

(少し長いですが、熊谷公男「任那復興」策と「任那の調」 - 東北学院大学学術情報リポジトリ、も参考になります。このタイトルでネットで検索すると読めます)

ちなみに、当時は「日本」という国号はなかったので、「日本府」と呼ばれるものがあったということはあり得ません。
古墳について- 73期生
2020/05/16 (Sat) 12:49:58
前期は集落近くの丘の上に作られ、中期では平野に展開したとありますが、これにはどんな背景があるのでしょうか?
Re: 古墳について - 某日本史教諭
2020/05/16 (Sat) 13:58:52
ヤマト政権の発祥の地とされているのは、奈良県桜井市・三輪山の麓の纒向遺跡です(次を参考にしてください)。
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html
ここにある出現期の古墳として有名な箸墓古墳は、丘陵面(扇状地)を利用して築かれています。すでに丘になっているところを使えば、形を整えるだけでよいので盛り土の量は少なくてすみます。

古墳時代中期になると、ヤマト政権は河内平野に政権所在地を移したようで、大仙陵古墳などの巨大古墳もここに築かれます。河内平野はもともとは湖で、大和川の堆積作用で陸化が進み、古墳時代中期には奈良盆地よりもこっちの方が水田開発の余地があったのでしょう。ただし、古墳を築くとなると平地を掘って土を取り、盛り土をする必要が出てきます。土を取った後には水が溜まるので、ため池として利用したという説があり、これはなるほどと思う説です。実際、近年まで古墳の周りの濠の水は灌漑用に使われていました。

平野に古墳を作るのは大変です。それだけ王権が強化され、渡来人などによる土木技術が進歩したことをうかがわせます。
集落の場所について- 73期生
2020/05/16 (Sat) 12:47:04
縄文時代はわき水のある台地で生活し、弥生時代は低地へと移ったと書いてありましたが、この移動にはどんな理由があったのかを教えていただきたいです。よろしくお願いします。
Re: 集落の場所について - 某日本史教諭
2020/05/16 (Sat) 13:16:01
縄文人の食生活のベースはドングリです。ナラを主とする落葉広葉樹、カシやシイの常緑の照葉樹ですので、低湿地では育ちません。そうした森林が形成される比較的高燥なところに住んだほうが便利でしょう。

弥生人は稲作主体で生活をしますから田んぼのそばに住むほうが便利です。初期の水田は低湿地を利用した湿田でしたので、自ずから低地にムラを作るようになります。
マジノ線について- 士魂
2020/05/15 (Fri) 23:31:35
講義録099に、「マジノ線を突破された」という記述がありますが、これは間違ってはいませんか。
フランスはベルギーとの国境にはマジノ線を建設していなかった、と何かの書籍で読んだ記憶があります(記憶だけで確認などしていないので不正確ですが…)。ドイツ軍はそこから進攻し、また戦車等の通行が難しいと思われていたアルデンヌ高地を通っています。
なので、マジノ線を「突破」された、というよりは、迂回して奇襲されたといったほうが正しいのではないでしょうか。
Re: マジノ線について - 某日本史教諭
2020/05/16 (Sat) 06:49:17
あまり詳しくないので調べてみました。
百科事典や世界史事典の類ではあっさりと「マジノ線突破」と説明しているのが多いのに対し、ウェブ上の戦史研究の類では「重装部を迂回」とか「手薄なアルデンヌの森に侵攻」という説明をしていますね。
「重装部もザールブリュッケンの南で突破された」という記事もあり、「マジノ線突破」自体は間違いではないようですが、マジノ線を広義に解釈するか、狭く解釈するかでも書きっぷりが変わっているようです。
いずれにしても、歴史を叙述するにあたり、大局的に見てさらりと書くか、細かく見て言葉を尽くすかの差であって、どちらも間違いではないと思いました。

士魂さんは、サイトを細かい点までよく読んでくれていてありがたいです。勉強になりました。また気付いたことがあれば指摘してください。
神事について- 匿名73期
2020/05/14 (Thu) 22:34:51
禊・祓の違いについて、けがれを雪ぐ方法が直接的か間接的かという違いという認識でしょうか。
Re: 神事について - 某日本史教諭
2020/05/14 (Thu) 22:52:24
あまり考えたこともなかったですね。間接、直接というよりも、ルーツとなった文化の違いかもしれません。

禊は「身そそぎ」からきた言葉ですが、東南〜南アジア各地で見られる沐浴による浄めの系統だと思います。インドのガンジス川での沐浴をイメージしてみてください。

祓に使う御幣は、東日本からアイヌの人たちにかけて用いられている「削りかけ」がもとだと思います。北東アジアの系統でしょうね。
参考動画は次のとおり:
https://www.youtube.com/watch?v=u1S3ECv97rA

とすると、ケガレを除く儀礼には、日本文化でよく指摘される、南と北の要素があらわれているといってもいいのかもしれません。
Re: Re: 神事について - 匿名73期
2020/05/15 (Fri) 21:59:37
ありがとうございます。